理想の私が死んでいく

適応障害で休職→復帰しました。悩みつつ楽しく生きる雑記ブログ。

幸せの隠し方

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寝れなくて朝になりました。

おはようございます。

 

なんとなく、思ったこと。

なんとなくなんですが、私にとって不幸なことって書きやすくて。

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自分の身に起きる出来事としては、全く嬉しくは無いですが、伝えることに関しては、よっぽど同情を激しく強要するようなことを限り、周囲から反感を買うことはほとんど無いからです。

 

気持ちを素直にありのままに、言葉を作ると、誰かしら共感してくれることも多いです。

 

アドバイスがほとんどですし、優しい方が多いのか、あまりキツイ言葉を使われたことはありません。

 

皆様に不幸自慢をして慰めてもらいたいというような根性ではなく、(たまにひどい時は全てをぶちまけて誰かに慰めて欲しい日もあるけれど)、基本は自分に起こった辛かったことを言葉に起こして、もう一度客観的に眺めることで、昇華させたいと思っているから、書いています。

 

でも、幸せな出来事ほどブログに書くのに躊躇うというか。

 

自分の心がそうなのかもしれませんが、自分が辛い時に、他人の幸せそうな様子を見ると「羨ましいな」って思って妬みやすい性格なんだとおもいます。

 

特に素直に幸せな感情を表している(ようにこちら側からは見える)人を見つけると、悔しくなります。

 

なぜ、あんなに自由に幸せであることを包み隠さずに表せるんだろう。

もし、何かの拍子で躓いたら笑われてしまうのかもしれないのに。

 

そう疑問に感じてしまうのは、私は自由に生きているように見える人が羨ましいのです。また、幸せを開示した時に、同時に発生する「人から馬鹿にされるリスク」にも怯えています。

 

だからといって、幸せそうな人に大きな憎悪を常に向けるわけでは全く無いです。

幸せそうにしている人を見ていると、幸せが伝染してくる感じがして嬉しい気持ちにもなる。それが基本的な感情で、それも本当の自分の気持ち。

 

でも純度100%に真っ白な心で喜んでいるのか、と言われると、それは嘘。

ほんのちょっぴりだけ、嫉妬の気持ちがある。

 

そういう自分は、キライだ。

何で人の幸せを素直に喜べないんだろうなぁって思う。

 

だから、昔から自分の幸せな話をするのが苦手です。

 

例えば、テストで1位になったとか。

例えば、ゼミの先生から褒められたとか。

例えば、彼氏ができたとか。

例えば、家族で遠くへ旅行に行ったとか。

 

些細なことでも、嫉妬を買うような話をしたく無いという、ズルイ八方美人な根性が働く。

 

前に書いた私の女子会が良い例で、だいたい不幸な話になる。

共感をし合うという意味で、不幸な話は議題に上りやすいんです。

hituzidameiko.hatenablog.com

 

「もっと建設的な話をしてみんなで幸せになれば?」って感じる人もいると思うんだけれど、自分がしんどい時に、幸せエネルギーやポジティブシンキング、迅速な解決策を見せられると、かなり苦痛に感じるのを知ってる。

 

さらに前向きな話題だから、「その幸せな話やめてほしい」なんて言えない、言いたくないですしね。

 

似た話はここでもしましたね。

hituzidameiko.hatenablog.com

 

だからと言って、幸せな時に「私、超幸せ!ハッピー!!」って気持ちを表明することを、批難や自粛するのもなんか可笑しな話だと思うんですよね。

 

幸せを幸せと言って悪いこと無いとも思うんですよね。

 

んー。

で、結局どうすりゃいいんだろう?

 

自分の思考が歪んでると、相手の言葉も歪んでみえてしまいます。

 

「友人はおめでとうって言ってくれてるけど、本心なのかな」とか。

 

そんなこと考えたって、無意味です。

心の内を相手に問いただした所で、私は一生、相手の本当の気持ちを知ることはできません。

 

あくまで、相手の言葉や表情や行動から、相手の気持ちを推し量ることしかできません。

 

人間の感情の推移なんて秒単位で変わるものだと思ってます。

 

好きな人を嫌いだと思う日もあるし、嫌いな人を好きだと思う瞬間もある。

 

感情バロメーターの積み重ねで、信頼関係や絆という強固なものができるのであって、一瞬の感情の起伏を切り出したところで、それは何の意味も持たないんじゃないかと思います。

 

人の幸せに悪口や妬みを言う人なんか心が貧しい人。自分の人生に関係無いんだからほっとけ、と言われればそれまでなんだけど。

 

自分が他人の悪意にさらされないように、幸せな癖に「不幸せのフリ」をして息を潜めたいならそうすればいい、と言われればそうなんだけど。

 

でも、どっちも何かが違うというか。

 

自分主体で生きることを考えれば、幸せの表明をすることは善だけど、他人主体で見た場合は、不愉快な行動であり悪にもなりえるよねって話なんですよね。

 

他人へ不愉快な行動をとることがなぜ悪いかを突き詰めて考えると、相手に不快な思いをさせたくないという理由はもちろんあるけど、最終的には相手を刺激して傷つけられたくないって気持ちはどこかにあるんですよね。

 

他人に傷つけられても負けないで、自分の幸せを追い求めて生きるのが、本当の自分の幸せへの近道なんだとは思うのですが。

 

分かっていることと、できることは違うよな~って話です。

 

相変わらず弱っちいままみたいです。

 

まとめ

そもそも、何でこんなこと書いたかというと、たまには幸せっぽい記事でノロケてみたいなって軽く思ったんですが、全く筆が進まなくて、最終的にややこしい思考に陥った次第です。

こんな感じで、おわり。

 

良い一日を。