理想の私が死んでいく

適応障害で休職→復帰しました。悩みつつ楽しく生きる雑記ブログ。

可愛い子ぶってるあざとい女が嫌いだった。

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どうも、ひつじ田メイ子です。

 

Twitterで、あざといパジャマを買いに行く宣言をした途端、TLがえらいことになりました。

楽しかったのでまた定期的にやります。

 

どうでもいい話ですが、私のあざといパジャマとは、セクシーなパジャマではなくふわふわモコモコ系ショーパンパジャマのことです。

 

友人と買い物に行った時に、こういうパジャマが欲しいと言う話をしたら「相変わらずあざといw」と言われたので、あざとくなった経緯をお話しようかと思います。

 

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「あざとい=みっともない」という認識だった自分

私は元々は、

可愛い子ぶってあざとい女が大嫌いでした。

 

たぶん、高校生くらいまでは。

彼女達に対し、異常な嫌悪感がありました。

声色が変わる様子や、あからさまな男ウケを狙った服装や態度にイライラしていたような気がします。

天然と思われている子でも、実は計算だなんてどこにでも転がっている事例ではないでしょうか。

 

何で自分がその人達が嫌いなのか、と考えたことは無く。

ただただ嫌いで、自分と違う人種だと線引きしていたような気がします。

 

可愛い子ぶっている人=頭の悪い人って思っていたかもしれません。

(過激な表現ですいません)

 

最初に結論からいうと、

そう思ってた自分の方が、彼女たちの数倍は性格が悪く、カッコ悪かった

っていう話です。

 

屈辱的な転機

高校生の途中くらいに、彼氏ができました。

それと同時に、自分の心境に変化がありました。

 

「私だって可愛く見られてみたい」という執着に自分も捕らわれ始めたのです。

かなり戸惑いました。

だって、嫌いだと思っていた人達の真似をしなければいけないという屈辱的な気分だったのです。

 

あの人達と同じになりたくない。 

でも彼氏には良く見られたい。

 

そんな捻じ曲がったモヤモヤした気分のまま、恐る恐る、色々に工夫して、髪や服装、化粧や仕草などに気を使い始めました。

 

その行為をしたことで、人に褒められることもあれば、「無理してるw」と笑われることもありました。

 

誰かにちぐはぐな自分を笑われる日は傷つきますが、老若男女問わずに少しでも「可愛い」と褒められることは 単純に嬉しいことなのだと、目からうろこでした。

 

他人から「可愛い」と見られるには何が必要なのかを研究し始めると、非常に奥深いものがありました。

 

女性の言う「可愛い」と男性の言う「可愛い」は微妙に違うということや、仕草や言動も自分が想像しているより、うまく工夫をしないと相手に気持ちが伝わらないことも知りました。

 

自分自身が馬鹿にしていた「可愛い」を表現し周囲に受け入れられることは、かなり努力や知識、経験も必要な難しいことだったのです。

 

「あざとい」は相手のニーズに応えようとしている。

では、一周回って。

高校生の私は、なぜあんなにも、あざとくて可愛い女の子を目の敵にしていたのでしょうか。

 

今から思えば、イライラの原因は、詰まるところ嫉妬だったように思います。

 

「あざとい」という言葉の意味は、抜け目なく貪欲である様のことです。

小利口ともいいます。

つまり、賢いのです。

相手の反応や性格からニーズを見極めて、「可愛さ」の提供しようと努力しているということです。

 

「それってやっぱり計算高い女なだけじゃん」って思われそうですが、髪の毛がボサボサでスエットのまま初デートへ行く人は、あまりいないですよね。

やっぱり誰でもそれなりに考えて、お化粧や洋服選びをするのではないでしょうか。

 

誰かに良くと思われたいっていう感情は、大小はあれど、誰でも存在するものではないでしょうか。

 

高校生までの私は、可愛い子ぶっていることで、不当な評価を周囲から得ているのが卑怯な手法だと感じ、不愉快だと、感じていたのだと思います。

 

でも、今から思えば不当な評価でも卑怯でもなんでもなく。

「可愛さ」は彼女達の生きる上での武器であり、処世術に過ぎなかったので、私がとやかく言う問題ではありません。

頭の良い人、スポーツができる人、お金持ちの人を、自分の工夫や努力無しで羨むのとそう大差ない、無意味なことだったと反省しています。

 

可愛い子は性格悪い説について

可愛い子は性格が悪いなんて言葉もたまに耳にしますが、容姿と中身は切り離して語るべきものと考えます。(表情には少し滲み出るかもしれないけど)

 

性格が悪いという定義も曖昧ですし、個人的に嫌いな性格(例えば、男性のニーズを見極めようとする根性がそもそも嫌い)なら、それは嫌いで良いと思うんですよね。

 

攻撃的にならず、なるべく距離をとれるようにすれば、お互いハッピーです。

職場とかのコミュニティに苦手な人物が居て、目につくと中々辛いものがありますが。

 

でも、相手から自分への直接被害は無いにも関わらず、なんとなく嫌いな人がいたら、何で嫌いなのかについて向き合うと、意外に気づかなかった発見があるかもしれません。

 

とりあえず私は、顔の造形を引き合いに出して、性格を貶めるのは卑劣だと思います。

性格が気に入らないなら、性格の批判だけをするのが、真っ当な批判だと思うのです。

 

結局、歪んだ嫉妬の塊だった自分

私は、

可愛い見た目、可愛い言動を臆さずに素直に表現して、評価を得ている彼女達の功績を羨んでいた

に過ぎなかったのです。

 

今から思えば、サッサと自分の欲望に気づいて、承認欲求を得られる努力をする方向に舵を切れば良かったのに、ずいぶんと歪んだ根性ですよね。

 

私にとって、可愛さを求めて追及することは、自分にとって恥ずかしいことだし無理なんだと感じていました。

 

他人を攻撃することで、「自分は可愛くなれるわけがない、きっと笑われてしまう」というような自己卑下の気持ちを、心の底で慰める術だったのかもしれません。

 

可愛く振舞える人を横目で気にするくせに、私は彼女達を心の中で馬鹿にしていました。

とても、ちぐはぐな人間ですね。

 

この経験から、自分にとって実害が無いのに、相手に「むかつく」「イライラする」という感情が起きるのは、自分にとって羨ましくて、嫉妬の気持ちがある時が多いな~と学んだのです。

 

今で言うと、SNSで結婚報告とか見ると、「いいな~」とモヤモヤする気持ちが浮かびます。

それは、多分自分も幸せになりたいからです。

 

少し前までだとそういう報告を見ると、「ハイハイ。幸せアピール」と意地悪な気持ちもあったのですが、考え方を変えるとちょっとは収まりました。(完全には意地の悪さが消し去れないのが、残念な人間性です。スイマセン…)

 

私はあざとい女にジョブチェンジした。

人を羨むのって、エネルギーいるし疲れるんですよね。

今でも、時々、度々やっちゃうけれど。

でも、比較すればするほど辛い。

羨んでる間って、羨んでる相手はどんどん幸せになってるのに、自分はその場から一歩も進まないわけじゃないですか。

 

だったら、他人にあざといと言われようが、可愛い子ぶってる痛い女と言われようが、大学デビューと言われようが(笑)

「可愛くなりたい自分の欲望」を素直に認めて動き始める方が、精神安定上は絶対良い

と、私は結論づけたのです。

 

だから、積極的に相手の喜びそうなことは考えます。

思いつくこと全部はやりませんが、たまに小出しで。

あくまで自分も少し背伸びしたらできて、楽しくて、やったら相手も喜んでくれそうな範囲内で、試行錯誤して考えてやってます。

 

そんな感じで、素直に欲望は認めて実行した方が、自分の精神衛生上いいのではないでしょうか。という話でした。

 

 

まあ、そんなかんじです。

ではでは。 またね。