適応障害になって考えたパワハラのジレンマ
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最近はふざけた記事ばっかり書いていたので、少しまじめに。
【注意】
以下の文章は私の状況下においてのパワハラについての感じたことです。
パワハラの被害に遭われた方に対してこう考えるべきだと、主張しているわけではありません。
パワハラを肯定しているわけでもありません。
ただ、自分を傷つけた人の背景を考えると、複雑な気持ちが拭えないという気持ちを書きました。
私が休職したきっかけは、以前から書いてある通り異動したことに加え、上司とそりの合わなかったからだと自分では思っています。
ただ、上司の鈴木さん(仮名)に対してそりが合わなかったで片づけて本当に良かったのかなとも最近少し考えます。
一般的には、パワハラと分類されても良いようなことがたくさんありました。
「パワハラ」という言葉が頭にチラつきながらも、人事には
「上司の鈴木さんは私のためを思って言ってくれていた言葉だったと思うが、厳しい言葉(バカ、暗い等々)に私はどうしても耐えられず、病気になってしましました」
という自己卑下した報告の後、休職に入りました。
両親は上司の鈴木さんに対し、「パワハラだ」と非常に怒りを抱いていましたが、私は鈴木さんが完全に悪い人だとは思えず、大事にしないように言い含めました。
当時は、怒る気力すら無くただ静かに眠りたいという欲求しか湧かなかったというのもあるのですが。
鈴木さんは、会社の利益を短期間で上げ、受注数も驚くほど上昇させました。
顧客の求めるサービスを提供し、私の会社と顧客の間で厚い信頼を結びました。
鈴木さんは厳しく口が悪かったですが、私を立派に一人立ちさせたいと常々言ってくれました。
鈴木さんは家族を愛していて、家族を守るためなら何でもするという責任感の強い方でした。
以上の背景から見て、私の中で尊敬する部分もあり鈴木さんは完全な悪人では無いのです。しかしながら、彼の言葉や態度に傷つく自分がいたのも確かです。
上記の裁判事例を読んで、私も似たような状況がいっぱいあったよなと思い返しました。
パワハラと評価された言動、パワハラでないと評価された言動はどちらも業務遂行に際し上司が大声で原告を叱責していますが、パワハラとされた言動は、「時間が掛かる」という事実の指摘にとどまらず、「あほでもわかる」「能力が劣っている」など、原告の能力が低いと原告の人格を否定するような内容であり、原告に与えた心理的負荷はより大であるといえます。
特にこの部分は「自分のことかな?」と思うくらい当てはまりました。
鈴木さんから「暗すぎるから性格変えろ。それも仕事」と言われたことはだいぶ深い傷になってます。
しかしパワハラと訴えれば、鈴木さんを完全悪だとしてしまう気がして、私は結局今日まで言えていません。
私がパワハラだと言わなかったことで、次に鈴木さんの部下を務める人も私と同じ辛い思いをしていたらどうしよう、という気持ちも浮かんできます。
もしそんなことが起こってしまったら、事実を会社に訴えずに見て見ぬふりした私も悪だと思います。
私は人をなるべく傷つけず、否定せず、寄り添える人間になりたいと思っています。
それが私の正しさだからです。
でも正しさはとても曖昧で、「善にも悪にも見えるもの」がたくさんあって、分類できずにただごちゃごちゃと心の中にあり続けます。
パワハラという行為は悪だと思います。
誰かを罵倒することでストレスを発散したり、暴力を振るったり、笑いものにすることは決して許されるべきではないと思います。
でも私の場合は違ったのです。
指導の延長線上でパワハラまでに至ってしまった気がするのです。
鈴木さんのことを憎んで大嫌いだと切り捨て訴えられたらどんなに楽だろう、と考えます。でも、私は嫌いになりきれないのです。
それなのに、全てを許そうという寛大な心の広さも私には無いのです。
自分のありのままの感情を受け入れることが大事なのだと思います。
相手や周囲を気にしてはキリが無いと。
怒りたければ怒れば良いし、泣きたければ泣けばいい。
そう思うのですが、やっぱりごちゃごちゃ考えてしまいます。
ただ自分が痛い思いをしたからこそ、誰かが無理していたら気づけるかもしれないし、白黒割り切れず進めずに苦しむ気持ちも、少しだけでも感じてあげられるのかなと思います。
誰かの苦しみを完全に分かるということは、とても難しいことだと思うので、否定されずに自由に吐き出せる場所があるんだよ、と伝えてあげられる人間になりたいですね。
なんだかまとまりませんが終わりです。
元気が無いわけでは無いので、ご安心ください。
ただ徒然と思うこと書いてみました。
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